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のも外典の文にもにず、僧と申すものも物はいえども道理もきこえず、形も男女にもにざりしかば、かたがたあやしみおどろきて、左右の大臣、大王の御前にしてとこう僉議ありしかども、多分はもちうまじきにてありしかば、仏はすてられ、僧はいましめられて候いしほどに、用明天皇の御子・聖徳太子と申せし人、びだつ二年二月十五日、東に向かって南無釈迦牟尼仏と唱えて、御舎利を御手より出だし給いて、同六年に法華経を読誦し給う。
それよりこのかた七百余年、王は六十余代に及ぶまで、ようやく仏法ひろまり候いて、日本、六十六箇国二つの島にいたらぬ国もなし。国々・郡々・郷々・里々・村々に、堂塔と申し、寺々と申し、仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり。日月のごとくあきらかなる智者、代々に仏法をひろめ、衆星のごとくかがやくけんじん、国々に充満せり。
かの人々は、自行には、あるいは真言を行じ、あるいは般若、あるいは仁王、あるいは阿弥陀仏の名号、あるいは観音、あるいは地蔵、あるいは三千仏、あるいは法華経読誦しおるとは申せども、無智の道俗をすすむるには、「ただ南無阿弥陀仏と申すべし。譬えば、女人の幼子をもうけたるに、あるいはほり、あるいはかわ、あるいはひとりなるには、『母よ、母よ』と申せば、ききつけぬればかならず他事をすててたすくる習いなり。阿弥陀仏もまたかくのごとし。我らは幼子なり。阿弥陀仏は母なり。地獄のあな、餓鬼のほりなんどにおち入りぬれば、南無阿弥陀仏と申せば、音と響きとのごとく、必ず来ってすくい給うなり」と、一切の智人ども教え給いしかば、我が日本国かく申しならわして、年ひさしくなり候。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(273)中興入道消息 | 弘安2年(’79)11月30日 | 58歳 | 中興入道夫妻 |