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るならば、還って日蓮が失になるべし。いかんがせん、いかんがせんと思いわずらいて、今まで法華経を渡し奉らず。
渡し進らせんがためにもうけまいらせてありつる法華経をば、鎌倉の焼亡に取り失い参らせて候由申す。かたがた入道の法華経の縁はなかりけり。約束申しける我が心も不思議なり。また我とはすすまざりしを、鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に口入有りしことなげかし。本銭に利分を添えて返さんとすれば、また弟子が云わく「御約束違い」なんど申す。かたがた進退極まって候えども、人の思わん様は狂惑のようなるべし。力及ばずして法華経を一部十巻渡し奉る。入道よりも、うばにてありし者は内々心よせなりしかば、これを持ち給え。
日蓮が申すことは愚かなる者の申すことなれば用いず。されども、去ぬる文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせてありしに、対馬の者かためてありしに宗総馬尉逃げければ、百姓等は男をばあるいは殺し、あるいは生け取りにし、女をばあるいは取り集めて手をとおして船に結い付け、あるいは生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても、またかくのごとし。船おしよせてありけるには、奉行入道豊前前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、あるいは生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども、壱岐・対馬のごとし。また今度はいかんがあるらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せてあるならば、いかに成るべきぞ。北の手は、まず佐渡の島に付いて、地頭・守護をば須臾に打ち殺し、百姓等は北山へにげんほどに、あるいは殺され、あるいは生け取られ、あるいは山にして死ぬべし。そもそもこれ程のことは、いかんとして起こるべき
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(271)一谷入道御書 | 建治元年(’75)5月8日 | 54歳 | 一谷入道の妻 |