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一谷入道御書
建治元年(ʼ75)5月8日 54歳 一谷入道の妻
去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をこうぼりて伊豆国伊東郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかども、ほどもなく、同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。また文永八年太歳辛未九月十二日、重ねて御勘気を蒙りしが、たちまちに頸を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司預かって、その内の者どもの沙汰として彼の島に行き付いてありしが、彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬあらえびすなれば、あらくあたりしことは申すばかりなし。しかれども、一分も恨むる心なし。
その故は、日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云う者を、子細も聞きほどかず理不尽に死罪にあてがうことなれば、いおうや、そのすえの者どものことは、よきもたのまれず、あしきもにくからず。この法門を申し始めしより、命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり。
弘演といいし者は、主の衛の懿公の肝を取って、我が腹を割いて納めて死ににき。予譲といいし者
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(271)一谷入道御書 | 建治元年(’75)5月8日 | 54歳 | 一谷入道の妻 |