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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

十千の小国、無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等おさまれるがごとし。譬えば、鏡はわずかに一寸・二寸・三寸・四寸・五寸と候えども、一尺・五尺の人をもうかべ、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつすがごとし。されば、この経文をよみて見候えば、この経をきく人は一人もかけず仏になると申す文なり。
 九界・六道の一切衆生、各々心々かわれり。譬えば、二人・三人、乃至百千人候えども、一尺の面の内、じちににたる人一人もなし。心のにざるゆえに面もにず。まして二人・十人、六道・九界の衆生の心いかんがかわりて候らん。されば、花をあいし、月をあいし、すきをこのみ、にがきをこのみ、ちいさきをあいし、大いなるをあいし、いろいろなり。善をこのみ、悪をこのみ、しなじななり。
 かくのごとくいろいろに候えども、法華経に入りぬれば、ただ一人の身、一人の心なり。譬えば、衆河の大海に入って同一の鹹味なるがごとく、衆鳥の須弥山に近づいて一色なるがごとし。提婆が三逆と羅睺羅が二百五十戒と、同じく仏になりぬ。妙荘厳王の邪見と舎利弗が正見と、同じく授記をこうぼれり。これ即ち「一りとして成仏せざることなけん」のゆえぞかし。
 四十余年の内の阿弥陀経等には、舎利弗が七日の百万反、大善根ととかれしかども、「いまだ真実を顕さず」ときらわれしかば、七日ゆをわかして大海になげたるがごとし。韋提希が観経をよみて無生忍を得しかども、「正直に方便を捨つ」とすてられしかば、法華経を信ぜずば返って本の女人なり。大善も用いることなし、法華経に値わずばなにせん。大悪もなげくことなかれ、一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。これらは皆「一りとして成仏せざることなけん」の経文のむなしからざるゆ