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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

女も、一句をも人にかたらん人は如来の使いと見えたり。貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。この経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師云わく「一句も神に染めぬれば、ことごとく彼岸を資く。思惟・修習すれば、永く舟航に用たり」云々。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんば、かなうべからず。
 そもそも、法華経の「如渡得船(渡りに船を得たるがごとし)」の船と申すことは、教主・大覚世尊、巧智無辺の番匠として、四味八教の材木を取り集め、正直捨権とけずりなして邪正一如ときり合わせ、醍醐一実のくぎを丁とうって、生死の大海へおしうかべ、中道一実のほばしらに、界如三千の帆をあげて、諸法実相のおいてをえて、以信得入の一切衆生を取りのせて、釈迦如来はかじを取り、多宝如来はつなでを取り給えば、上行等の四菩薩は函蓋相応してきりきりとこぎ給うところの船を、「如渡得船」の船とは申すなり。
 これにのるべき者は、日蓮が弟子檀那等なり。能く能く信じさせ給え。
 四条金吾殿に見参候わば、能く能く語り給い候え。委しくは、またまた申すべく候。恐々謹言。
  四月二十八日    日蓮 花押
 椎地四郎殿へ