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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頸を切りしにとがなかりしかども、師子尊者の頸を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき。弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼きし時、十二神の棒にこうべわられにき。
 今、日本国の人々は、法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり。こう申せば、日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり。さにはあらず。これを云わずば、法華経の行者にはあらず。また、云う事の後にあえばこそ人も信ずれ。こうただかきおきなばこそ、未来の人は智ありけりとはしり候わんずれ。
 また「身は軽く法は重し。身を死して法を弘む」とのべて候えば、身は軽ければ人は打ちはり悪むとも、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば、死かばね還って重くなるべし。かばね重くなるならば、このかばねは利生あるべし。利生あるならば、今の八幡大菩薩といわわるるようにいわうべし。その時は、日蓮を供養せる男女は、武内・若宮なんどのようにあがめらるべしとおぼしめせ。
 そもそも、一人の盲目をあけて候わん功徳すら申すばかりなし。いわんや、日本国の一切衆生の眼をあけて候わん功徳をや。いかにいわんや、一閻浮提・四天下の人の眼のしいたるをあけて候わんをや。
 法華経の第四に云わく「仏滅度して後に、能くその義を解せば、これ諸の天・人の世間の眼なり」等云々。法華経を持つ人は一切世間の天・人の眼なりと説かれて候。日本国の人の日蓮をあだみ候は、一切世間の天・人の眼をくじる人なり。されば、天もいかり日々に天変あり、地もいかり月々に地夭かさなる。