彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず。いかにいわんや、その以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下してもその過有らんやと意得て、宗論すべし。
また、彼の律宗の者どもが破戒なること、山川の頽るるよりもなお無戒なり。成仏までは思いもよらず。人天の生を受くべしや。妙楽大師云わく「もし一戒を持たば、人中に生ずることを得。もし一戒を破らば、還って三途に堕つ」。その外、斎法経・正法念経等の制法、阿含経等の大小乗経の斎法・斎戒、今ほどの律宗・忍性が一党、誰か一戒をも持てる。「還って三途に堕つ」は疑いなし。もしは無間地獄にや落ちんずらん、不便なんど立てて、宝塔品の「持戒行者」、これを訇るべし。
その後、やや有って、「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字となせり。この五字の内にあに万戒の功徳を納めざらんや。ただし、この具足の妙戒は、一度持って後、行者破らんとすれども破れず。これを金剛宝器戒とや申しけん」なんど立つべし。三世の諸仏は、この戒を持って、法身・報身・応身なんど、いずれも無始無終の仏に成らせ給う。これを「諸教の中においてこれを秘して伝えず」とは天台大師は書き給えり。今、末法当世の有智・無智、在家・出家、上下万人、この妙法蓮華経を持って説のごとく修行せんに、あに仏果を得ざらんや。さてこそ、「決定して疑いあることなけん」とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給えり。三仏の定判に漏れたる権宗の人々は、決定して無間なるべし。かくのごとくいみじき戒なれば、爾前・迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳無からんに一日の斎戒も無用なり。ただし、この本門の戒の弘まら
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(239)教行証御書 | 文永12年(’75)3月21日* | 三位房 |