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が宗を失うなるべし。法華宗の人が、法華経の題目・南無妙法蓮華経とはとなえずして、南無阿弥陀仏と常に唱えば、法華経を失う者なるべし。例せば、外道は三宝を立つ。その中に仏宝と申すは南無摩醯修羅天と唱えしかば、仏弟子は翻邪の三帰と申して南無釈迦牟尼仏と申せしなり。これをもって内外のしるしとす。南無阿弥陀仏とは浄土宗の依経の題目なり。心には法華経の行者と存すとも、南無阿弥陀仏と申さば、傍輩は念仏者としりぬ。法華経をすてたる人とおもうべし。叡山の三千人は、この旨を弁えずして、王法にもすてられ、叡山をもほろぼさんとするゆえに、自然に三宝に申すこと叶わず等と申し給うべし。
人不審して云わく「天台・妙楽・伝教等の御釈に、我がように法華経ならびに一切経を心えざらん者は悪道に堕つべしと申す釈やある」と申さば、玄の三・籤の三の「已今当」等をいだし給うべし。伝教大師、六宗の学者・日本国の十四人を呵して云わく、顕戒論の下に云わく「昔は斉朝の光統を聞き、今は本朝の六統を見る。実なるかな、法華の『いかにいわんや』は」等文。華厳・真言・法相・三論の四宗を呵して云わく、依憑集に云わく「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯ぼし、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す。沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れて称心の酔を覆い、著有の法相宗は僕陽の帰依を非して青竜の判経を撥う」等云々。天台・妙楽・伝教等は、真言等の七宗の人々は、たとい戒・定はまったくとも謗法のゆえに悪道脱るべからずと定められたり。いかにいわんや、禅宗・浄土宗等は勿論なるべし。されば、止観はひとえに達磨をこそはして候めれ。しかるに、当世の天台宗の人々は、諸宗に得道をゆるすのみならず、諸宗の行をうばい取って我が行とすること、いかん。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(237)法門申さるべき様の事 | 文永6年(’69) | 48歳 | 三位房 |