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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

(237)

法門申さるべき様の事

 文永6年(ʼ69) 48歳 三位房

 法門申さるべきよう。
 選択をばうちおきて、まず、法華経の第二の巻の「今この三界は」の文を開いて、釈尊は我らが親父なり等、定め了わるべし。
 いずれの仏か我らが父母にてはおわします。外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ。忠はまた孝の家より出ずとこそ申し候なれ。されば、外典は内典の初門。この心は内典にたがわず候か。人に尊卑・上下はありというとも、親を孝するにはすぎずと定められたるか。
 釈尊は我らが父母なり。一代の聖教は父母の子を教えたる教経なるべし。その中に、天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土・日本にはわずかに五千・七千余巻なり。
 これらの経々の次第・勝劣等は、私には弁えがとう候。しかるに、論師・大師・先徳には末代の人の智慧こえがたければ、彼の人々の料簡を用いるべきかのところに、華厳宗の五教・四教、法相・三論の三時・二蔵、あるいは三転法輪(一紙欠)
 「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」の文は、また法華経より出でて金口の