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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

明説なり。仏説すでに大いに分かれて二途なり。譬えば世間の父母の譲りの前判・後判のごとし。はたまた世間の前判・後判は如来の金言をまなびたるか。孝・不孝の根本は、前判・後判の用・不用より事おこれり。
 こう立て申すならば人々さもやとおぼしめしたらん時、申すべし。
 そもそも、浄土の三部経等の諸宗の依経は、当分の四十余年の内なり。世尊は我らが慈父として「未顕真実」ぞと定めさせ給う御心は、かの四十余年の経々に付けとおぼしめししか、また「真実を説きたもう」の言にうつれとおぼしめししか。心あらん人々、御賢察候べきかとしばらくあじわいて、よも、仏程の親父の、一切衆生を一子とおぼしめすが、真実なることをすてて未顕真実の不実なることに付けとはおぼしめさじ。
 さて、法華経にうつり候わんは、四十余年の経々をすてて遷り候べきか、はたまた、かの経々ならびに南無阿弥陀仏等をばすてずして遷り候べきかとおぼしきところに、凡夫の私の計らい、是非につけておそれあるべし。仏と申す親父の仰せを仰ぐべしとまつところに、仏定めて云わく「正直に方便を捨つ」等云々。「方便」と申すは、無量義経に「未顕真実」と申す上に「方便力をもってす」と申す方便なり。「方便力をもってす」の「方便」の内に、浄土三部経等の四十余年の一切経は一字一点も漏るべからざるか。されば、四十余年の経々をすてて法華経に入らざらん人々は、世間の孝・不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。
 故に、第二の譬喩品に云わく「今この三界は乃至また教詔すといえども、信受せず」等云々。四十