余年の経々をすてずして法華経に並べて行ぜん人々は、主・師・親の三人のおおせを用いざる人々なり。「教」と申すは師・親のおしえ、「詔」と申すは主上の詔勅なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば、四十余年の経々につきて法華経へうつらず、またうつれる人々も彼の経々をすててうつらざるは、三徳備えたる親父の仰せを用いざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。
この不孝の人の住処を経の次下に定めて云わく「もし人信ぜずして乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」等云々。たとい法華経をそしらずとも、うつり付かざらん人々、不孝の失疑いなかるべし。不孝の者は、また悪道疑いなし。故に、仏は「阿鼻獄に入らん」と定め給いぬ。いかにいわんや、爾前の経々に執心を固くなして法華経へ遷らざるのみならず、善導が「千の中に一りも無し」、法然が「捨閉閣抛」とかけるは、あに阿鼻地獄を脱るべしや。その所化ならびに檀那は、また申すに及ばず。
「また教詔すといえども、信受せず」と申すは、孝に二つあり。世間の孝の孝・不孝は、外典の人々これをしりぬべし。内典の孝・不孝は、たとい論師等なりとも、実教を弁えざる権教の論師の流れを受けたる末の論師なんどは、後生しりがたきことなるべし。いかにいわんや、末々の人々をや。
涅槃経の三十四に云わく「人身を受けんことは爪上の土、三悪道に堕ちんことは十方世界の土。四重・五逆あり乃至涅槃経を謗ずることは十方世界の土、四重・五逆なく乃至涅槃経を信ずることは爪の上の土」なんどととかれて候。末代には、五逆の者と謗法の者は十方世界の土のごとしとみえぬ。
されども、当時、五逆罪つくる者は爪の上の土、作らざる者は十方世界の土程候えば、経文そらごとなるようにみえ候を、くわしくかんがえみ候えば、不孝の者を五逆罪の者とは申し候か。また相
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(237)法門申さるべき様の事 | 文永6年(’69) | 48歳 | 三位房 |