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似の五逆と申すことも候。さるならば、前王の「正法・実法を弘めさせ給え」と候を、今の王の権法・相似の法を尊んで、天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして、権法・邪法の寺の国々に多くいできたれるは、愚者の眼には仏法繁盛とみえて、仏天・智者の御眼には古き正法の寺々ようやくうせ候えば、一には不孝なるべし、賢なる父母の氏寺をすつるゆえ。二には謗法なるべし。もししからば、日本国当世は国一同に不孝・謗法の国なるべし。この国は釈迦如来の御所領、仏の左右の臣下たる大梵天王・第六天の魔王にたばせ給いて、大海の死骸をとどめざるがごとく、宝山の曲林をいとうがごとく、この国の謗法をかえんとおぼすかと勘え申すなりと申せ。
この上、「捨てられて候四十余年の経々の今に候は、いかに」なんど俗の難ぜば、返詰して申すべし。「塔くむあししろは、塔くみあげては切りすつるなり」なんど申すべし。この譬えは、玄義の第二の文に「今、大教もし起こらば、方便の教絶す」と申す釈の心なり。妙と申すは「絶」ということ、「絶」と申すことは、この経起こらば已前の経々を断ち止むと申すことなるべし。「正直に方便を捨つ」の「捨」の文字の心、また嘉祥の「日出でぬるは星かくる」の心なるべし。ただし、爾前の経々は塔のあししろなれば、切りすつるとも、また塔をすりせん時は用いるべし。また切りすつべし。三世の諸仏の説法の儀式かくのごとし。
また俗の難に云わく、慈覚大師の常行堂等の難、これをば答うべし。内典の人、外典をよむ。得道のためにはあらず、才学のためか。山寺の小児の俱舎の頌をよむ。得道のためか。伝教・慈覚は八宗を極め給えり。一切経をよみ給う。これみな法華経を詮と心え給わん梯磴なるべし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(237)法門申さるべき様の事 | 文永6年(’69) | 48歳 | 三位房 |