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文永には佐渡の島、諫暁再三に及べば留難重畳せり。「仏法の中の怨なり」の誡責をも、身にははや免れぬらん。
しかるに、今、山林に世を遁れ道を進まんと思いしに、人々の語様々なりしかども、かたがた存する旨ありしによって、当国・当山に入ってすでに七年の春秋を送る。また身の智分をばしばらく置きぬ、法華経の方人として難を忍び疵を蒙ることは、漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝れたり。これは時のしからしむる故なり。
我が身、法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩、梵釈・竜神・十羅刹女も、定めてこの砌におわしますらん。水あれば魚すむ。林あれば鳥来る。蓬萊山には玉多く、摩黎山には栴檀生ず。麗水の山には金あり。今この所もかくのごとし。仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり。多くの月日を送り読誦し奉るところの法華経の功徳は、虚空にも余りぬべし。しかるを、毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。いよいよ、はげむべし、はげむべし。
十月八日 日蓮 花押
四条中務三郎左衛門殿御返事
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(221)四条金吾殿御返事(法華行者住処の事) | 弘安3年(’80)10月8日 | 59歳 | 四条金吾 |