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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

(221)

四条金吾殿御返事(法華行者住処の事)

 弘安3年(ʼ80)10月8日 59歳 四条金吾

 殿岡より米送り給び候。今年七月、盂蘭盆供の僧膳にして候。自恣の僧、霊山の聴衆、仏陀、神明も、納受・随喜し給うらん。尽きせぬ志、連々の御訪い、言をもって尽くしがたし。
 何となくとも殿のことは後生菩提疑いなし。何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模国竜の口にて頸切られんとせし時にも、殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲しみ給いし、事実にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思い忘るべき。
 それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋もれ、北山の嶺の山下風に命助かるべしともおぼえず、年来の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らんことは大海の底のちびきの石の思いして、さすがに凡夫なれば古郷の人々も恋しきに、在俗の宮仕え隙なき身に、この経を信ずることこそ希有なるに、山河を凌ぎ蒼海を経て遥かに尋ね来り給いし志、香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人々にも、いかでか劣り給うべき。また我が身はこれ程に浮かび難かりしが、いかなりけることにてや、同十一年の春の比、赦免せられて鎌倉に帰り上りけん。
 つらつら事の情を案ずるに、今は我が身に過あらじ。あるいは命に及ばんとし、弘長には伊豆国、