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各々、師子王の心を取り出だして、いかに人おどすともおずることなかれ。師子王は百獣におじず。師子の子、またかくのごとし。彼らは野干のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり。
故最明寺殿の日蓮をゆるししと、この殿の許ししは、禍なかりけるを人のざんげんと知って許ししなり。今はいかに人申すとも、聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず。たとい大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆえに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし。
月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし。我ら凡夫のつたなさは、経論に有ることと遠きことはおそるる心なし。
一定として、平らも城らもいかりて、この一門をさんざんとなすことも出来せば、眼をひさいで観念せよ。当時の人々のつくしへかさされんずらん。またゆく人、またかしこに向かえる人々を我が身にひきあてよ。当時までは、この一門にこのなげきなし。彼らはげんはかくのごとし。殺さればまた地獄へゆくべし。我ら、現にはこの大難に値うとも、後生は仏になりなん。たとえば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なれば、いたくていたからず。
彼のあつわらの愚癡の者ども、いいはげましておとすことなかれ。彼らには、ただ一えんにおもい切れ。よからんは不思議、わるからんは一定とおもえ。ひだるしとおもわば、餓鬼道をおしえよ。さむしといわば、八かん地獄をおしえよ。おそろししといわば、たかにあえるきじ、ねこにあえるねずみを他人とおもうことなかれ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(219)聖人御難事 | 弘安2年(’79)10月1日 | 58歳 | 門下一同 |