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えに、「陰徳あれば陽報あり」とは、これなり。我が主に法華経を信じさせまいらせんとおぼしめす御心のふかき故か。
阿闍世王は仏の御怨なりしが、耆婆大臣の御すすめによって法華経を御信じありて代を持ち給う。妙荘厳王は二子の御すすめによって、邪見をひるがえし給う。これまたしかるべし。貴辺の御すすめによって、今は御心もやわらがせ給いてや候らん。これひとえに貴辺の法華経の御信心のふかき故なり。
「根ふかければ枝さかえ、源遠ければ流れ長し」と申して、一切の経は根あさく流れちかく、法華経は根ふかく源とおし、末代悪世までもつきずさかうべしと天台大師あそばし給えり。この法門につきし人あまた候いしかども、おおやけ・わたくしの大難度々重なり候いしかば、一年二年こそつき候いしが、後々には、皆、あるいはおち、あるいはかえり矢をいる。あるいは身はおちねども心おち、あるいは心はおちねども身はおちぬ。
釈迦仏は、浄飯王の嫡子、一閻浮提を知行すること八万四千二百一十の大王なり。一閻浮提の諸王、頭をかたぶけん上、御内に召しつかいし人十万億人なりしかども、十九の御年、浄飯王の宮を出でさせ給いて、檀特山に入って十二年、その間、御ともの人五人なり。いわゆる、拘隣と頞鞞と跋提と十力迦葉と拘利太子となり。この五人も、六年と申せしに二人は去りぬ。残りの三人も後の六年にすて奉って去りぬ。ただ一人残り給いてこそ仏にはならせ給いしか。法華経は、またこれにもすぎて人信じがたかるべし。難信難解これなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(218)四条金吾殿御返事(源遠流長の事) | 弘安2年(’79)9月15日 | 58歳 | 四条金吾 |