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法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて諸行往生の由を念仏者ごとにこれを立つ。しかりといえども、ただ口にのみゆるして心の中はなお本の千中無一の思いなり。
在家の愚人は、内心の謗法なるをばしらずして諸行往生の口にばかされて、「念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事なり」と思えるにや、一向「諸行は千中無一」と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。失なき由を人に知らせて、しかも念仏ばかりをまた弘めんとたばかるなり。ひとえに天魔の計りごとなり。
問うて云わく、天台宗の中の人の立つることあり。「天台大師、爾前と法華と相対して爾前を嫌うに二義あり。一には約部。四十余年の部と法華経の部と相対して『爾前は麤なり、法華は妙なり』とこれを立つ。二には約教。教えに麤・妙を立て、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名づけて麤なりと嫌えり。円頓速疾の方をば嫌わず、法華経に同じて一味の法門とせり」と申すはいかん。
答えて云わく、このことは不審にもすること侍るらん。しかるべしとおぼゆ。天台・妙楽より已来、今に論有ることに侍り。天台の三大部六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は、爾前の円を嫌う文無し。ただ約部の時ばかり、爾前の円を押しふさねて嫌えり。
日本に二義あり。園城寺には智証大師の釈より起こって爾前の円を嫌うと云い、山門には嫌わずと云う。互いに文釈あり。ともに料簡あり。しかれども今に事ゆかず。
ただし、予が流の義には不審晴れておぼえ候。その故は、天台大師、四教を立て給うに四つの筋
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(001)唱法華題目抄 | 文応元年(’60)5月28日 | 39歳 |