草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼・耳等驚そうすれば天変あり、人の心をうごかせば地動ず。
そもそも、いずれの経々にか六種動これなき。一切経を仏とかせ給いしに、みなこれあり。しかれども、仏、法華経をとかせ給わんとて六種震動ありしかば、衆もことにおどろき、弥勒菩薩も疑い、文殊師利菩薩もこたえしは、諸経よりも瑞も大に久しくありしかば、疑いも大に、決しがたかりしなり。故に、妙楽云わく「いずれの大乗経にか、衆を集め、光を放ち、花を雨らし、地を動ぜざらん。ただし、大疑を生ずることなし」等云々。この釈の心は、いかなる経々にも序は候えども、これほど大いなるはなしとなり。されば、天台大師云わく「世人以えらく、蜘蛛掛かれば則ち喜び来り、鳱鵲鳴けば則ち行人至ると。小すらなお徴有り。大いずくんぞ瑞無からん。近きをもって遠きを表す」等云々。
夫れ、一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門をとかせ給いぬ。その上、本門と申すは、また爾前の経々の瑞に迹門を対するよりも大いなる大瑞なり。大宝塔の地よりおどりいでし、地涌千界大地よりならび出でし大震動は、大風の大海を吹けば大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のおいほにつくがごとくなりしなり。されば、序品の瑞をば弥勒は文殊に問い、涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問いたてまつる。これを妙楽釈して云わく「迹事は浅近なれば、文殊に寄すべし。本地は裁り難し。故にただ仏のみに託す」云々。迹門のことは、仏説き給わざりしかども、文殊ほぼこれをしれり。本門のことは妙徳すこしもはからず。この大瑞は在世のことにて候。
仏、神力品にいたって十神力を現ず。これはまた、さきの二瑞にはにるべくもなき神力なり。序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動はただ三千界、神力品の大地動は、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(202)瑞相御書 | 建治元年(’75) | 54歳 | (四条金吾) |