SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が、釈迦・多宝・十方分身の諸仏、地涌と娑婆と他方との諸大士、十方世界の梵釈・日月・四天に捨てられまいらせん分斉のことならば、わずかなる日本国の小神たる天照太神・八幡大菩薩の力及び給うべしや。その時、八幡宮はつくりたりとも、この国他国にやぶられば、「くぼきところにちりたまりひききところに水あつまる」と、日本国の上一人より下万民にいたるまでさたせんことは、兼ねてまた知れり。
 「八幡大菩薩は、本地は阿弥陀ほとけにまします。衛門大夫は念仏無間地獄と申す。阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ、その堂をやきはらい、念仏者のくびを切れと申す者なり。かかる者の弟子檀那と成って候が八幡宮を造って候えども、八幡大菩薩用いさせ給わぬゆえに、この国はせめらるるなり」と申さん時はいかがすべき。しかるに、天かねてこのことをしろしめすゆえに、御造営の大ばんしょうをはずされたるにやあるらん。神宮寺のことのはずるるも天の御計らいか。
 その故は、去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて、その年、他国よりおそい来るべき前相なり。風はこれ天地の使いなり。まつりごとあらければ風あらしと申すはこれなり。また今年四月二十八日を迎えて、この風ふき来る。しかるに、四月二十六日は八幡むね上げと承る。三日の内の大風は疑いなかるべし。蒙古の使者の貴辺が八幡宮を造ってこの風ふきたらんに、人、わらい、さたせざるべしや。
 返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて、身をやつし下人をもぐせず、よき馬にものらず、のこぎり・かなづち手にもち、こしにつけて、つねにえめるすがたにておわすべし。このこと一事も