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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 ただし、このたび、えもんの志どのかさねて親のかんどうあり。とのの御前にこれにて申せしがごとく「一定かんどうあるべし。ひょうえの志殿おぼつかなし。ごぜん、かまえて御心えあるべし」と申して候いしなり。今度は、とのは一定おち給いぬとおぼうるなり。おち給わんをいかにと申すことは、ゆめゆめ候わず。ただし、地獄にて日蓮うらみ給うことなかれ。しり候まじきなり。千年のかるかやも一時にはいとなる。百年の功も一言にやぶれ候は、法のことわりなり。
 さえもんの大夫殿は今度、法華経のかたきになりさだまり給うとみえて候。えもんのたゆうの志殿は今度、法華経の行者になり候わんずらん。とのは現前の計なれば、親につき給わんずらん。ものぐるわしき人々は、これをほめ候べし。宗盛が親父入道の悪事に随ってしのわらにて頸を切られし、重盛が随わずして先に死せし、いずれか親の孝人なる。
 法華経のかたきになる親に随って、一乗の行者なる兄をすてば、親の孝養となりなんや。せんずるところ、ひとすじにおもい切って、兄と同じく仏道をなり給え。親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。昔と今はかわるとも、法華経のことわりたがうべからず。当時も武蔵入道、そこばくの所領・所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらが、わずかのことをへつらいて、心うすくて悪道に堕ちて、日蓮うらみさせ給うな。
 かえすがえす、今度とのは堕つべしとおぼうるなり。このほど心ざしありつるが、ひきかえて悪道に堕ち給わんことがふびんなれば申すなり。百に一つ、千に一つも日蓮が義につかんとおぼさば、親に向かっていい切り給え。「親なればいかにも順いまいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給え