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も、いかにも力及ばざりしほどに、大兄王子・軽王子等なげかせ給いて、中臣鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給いしかば、臣申さく「いかにも人力はかなうべしとはみえ候わず」。馬子が例をひきて「教主釈尊の御力ならずば叶いがたし」と申せしかば、さらばとて、釈尊を造り奉っていのりしかば、入鹿ほどなく打たれにき。この中臣鎌子と申す人は、後には姓かえて藤原鎌足と申し、内大臣になり、大織冠と申す人、今の一の人の御先祖なり。この釈迦仏は、今、興福寺の本尊なり。
されば、王の王たるも釈迦仏、臣の臣たるも釈迦仏、神国の仏国となりしこと、えもんのたゆう殿の御文と引き合わせて心えさせ給え。今の代は他国にうばわれんとすること、釈尊をいるかせにする故なり、神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。
各々二人は、すでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみえさせ給うは、ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりとおぼすらん。またこれにもおもい候。後生のたのもしさ申すばかりなし。
これより後も、いかなることありとも、すこしもたゆむことなかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむことなかれ。あなかしこ、あなかしこ。恐々謹言。
八月二十一日 日蓮 花押
兵衛志殿御返事
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(174)兵衛志殿御返事(鎌足造仏の事) | 建治3年(’77)8月21日 | 56歳 | 池上宗長 |