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あるいは少し信ずるようなれども、また悪縁に値って信心うすくなり、あるいは打ち捨て、あるいは信ずる日はあれども捨つる月もあり。これは水の漏るるがごとし。
あるいは法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑え、沙・石を入れたるがごとし。法華経の文に「ただ楽って大乗経典を受持するのみにして、乃至、余経の一偈をも受けざれ」等と説くはこれなり。世間の学匠は法華経に余行を雑えても苦しからずと思えり。日蓮もさこそ思い候えども、経文はしからず。譬えば、后の大王の種子を妊めるが、また民ととつげば、王種と民種と雑じって天の加護と氏神の守護とに捨てられ、その国破るる縁となる。父二人出で来れば、王にもあらず、民にもあらず、人非人なり。
法華経の大事と申すはこれなり。種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は、必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給えり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。真言・五戒等も種ならず。能く能くこのことを習い給うべし。これは雑なり。
この覆・漏・汚・雑の四つの失を離れて候器をば完器と申して、まったき器なり。塹つつみ漏らざれば、水失することなし。信心のこころ全ければ、平等大慧の智水乾くことなし。
今この筒の御器は、固く厚く候上、漆浄く候えば、法華経の御信力の堅固なることを顕し給うか。
毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて、四天下第一の福天と云われ給う。浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて、妙音菩薩と成り給う。今、法華経に筒御器三十・盞六十進らせて、いかでか仏に成らせ給わざるべき。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(170)秋元御書 | 弘安3年(’80)1月27日 | 59歳 | 秋元太郎 |