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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 南無妙法蓮華経と申すは、一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり、体なり、所詮なり。かかるいみじき法門なれども、仏の滅後二千二百二十余年の間、月氏に付法蔵の二十四人弘通し給わず。漢土の天台・妙楽も流布し給わず。日本国には聖徳太子・伝教大師も宣説し給わず。されば、「和法師が申すは僻事にてこそあるらめ」と諸人疑って信ぜず。これまた第一の道理なり。譬えば、昭君なんどをあやしの兵なんどがおかしたてまつるを、みな人、「よも、さはあらじ」と思えり。「大臣・公卿なんどのようなる天台・伝教の弘通なからん法華経の肝心・南無妙法蓮華経を、和法師程のものがいかで唱うべし」と云々。
 汝等これを知るや。烏と申す鳥は、無下のげす鳥なれども、鷲・鵰の知らざる年中の吉凶を知れり。蛇と申す虫は、竜・象に及ばずとも、七日の間の洪水を知るぞかし。たとい竜樹・天台の知り給わざる法門なりとも、経文顕然ならば、なにをか疑わせ給うべき。日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱えさせ給わぬは、小児が乳をうたごうてなめず、病人が医師を疑うて薬を服せざるがごとし。竜樹・天親等はこれを知り給えども、時なく機なければ弘通し給わざるか。余人はまたしらずして宣伝せざるか。仏法は時により機によりて弘まることなれば、云うにかいなき日蓮が、時にこそあたりて候らめ。
 詮ずるところ、妙法蓮華経の五字をば、当時の人々は名とばかり思えり。さにては候わず、体なり。体とは心にて候。章安云わく「けだし、序王とは経の玄意を叙ぶ。玄意は文の心を述ぶ」云々。この釈の心は、妙法蓮華経と申すは、文にあらず、義にあらず、一経の心なりと釈せられて候。され