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阿含経の題目は、一経の所詮、無常の理をおさめたり。外道の経の題目の「あう」の二字にすぐれたること百千万倍なり。九十五種の外道、阿含経の題目を聞いて、みな邪執を倒し、無常の正路におもむきぬ。般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり。大日経・方等・般若経の題目を聞く人は、あるいは析空、あるいは体空、あるいは但空、あるいは不但空、あるいは但中・不但中の理をばさとれども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。
その詮を説かざれば、法華経より外は理即の凡夫なり。彼の経々の仏菩薩は、いまだ法華経の名字即に及ばず。いかにいわんや、題目をも唱えざれば、観行即にいたるべしや。故に、妙楽大師、記して云わく「もし超八の如是にあらずんば、いずくんぞこの経の所聞となさん」云々。彼々の諸経の題目は八教の内なり、網目のごとし。この経の題目は、八教の網目に超えて大綱と申すものなり。
今、妙法蓮華経と申す人々は、その心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず一代の大綱を覚り給えり。例せば、一・二・三歳の太子、位につき給いぬれば、「国は我が所領なり、摂政・関白已下は我が所従なり」とはしらせ給わねども、なにもこの太子の物なり。譬えば、小児は分別の心なけれども、悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを、趙高がように心おごれる臣下ありて太子をあなずれば身をほろぼす。諸経・諸宗の学者等、法華経の題目ばかりを唱うる太子をあなずりて、趙高がごとくして無間地獄に堕つるなり。また法華経の行者の、心もしらず題目ばかりを唱うるが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがいと申せし太子が趙高におどされ、ころされしがごとし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(166)曽谷入道殿御返事(如是我聞の事) | 建治3年(’77)11月28日 | 56歳 | 曽谷教信 |