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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならん」とこそ、ねんごろに語らせ給うらめ。その時、過去聖霊は、「我が子息・法蓮は、子にはあらず、善知識なり」とて、娑婆世界に向かっておがませ給うらん。これこそ実の孝養にては候なれ。
 そもそも、法華経を持つと申すは、経は一なれども持つことは時に随って色々なるべし。あるいは身肉をさいて師に供養して仏になる時もあり。また身を牀として師に供養し、また身を薪となし、またこの経のために杖木をかぼり、また精進し、また持戒し、上のごとくすれども仏にならぬ時もあり。時によって不定なるべし。されば、天台大師は「時に適うのみ」と書かれ、章安大師は「取捨宜しきを得て、一向にすべからず」等云々。
 問うて云わく、いかなる時か身肉を供養し、いかなる時か持戒なるべき。
 答えて云わく、智者と申すは、かくのごとき時を知って法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとえば、渇ける者は、水こそ用いることなれ。弓箭兵杖はよしなし。裸なる者は衣を求む。水は用なし。一をもって万を察すべし。大鬼神ありて法華経を弘通せば、身を布施すべし。余の衣食は詮なし。悪王あって法華経を失わば、身命をほろぼすとも随うべからず。持戒・精進の大僧等、法華経を弘通するようにてしかも失うならば、これを知って責むべし。法華経に云わく「我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」云々。涅槃経に云わく「むしろ身命を喪うとも、終に王の説くところの言教を匿さず」等云々。章安大師云わく「『むしろ身命を喪うとも、教えを匿さず』とは、身は軽く法は重し。身を死して法を弘む」等云々。