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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 題目とは二つの意有り。いわゆる正像と末法となり。正法には、天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱えさせ給いしかども、自行ばかり唱えてさて止みぬ。像法には、南岳・天台等、また南無妙法蓮華経と唱え給いて、自行のためにして広く他のために説かず。これ理行の題目なり。
 末法に入って、今、日蓮が唱うるところの題目は、前代に異なり、自行・化他に亘って南無妙法蓮華経なり。名・体・宗・用・教の五重玄の五字なり。
 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持って、有徳王・覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すはこれなり。三国ならびに一閻浮提の人の懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり。
 この戒法立って後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじきところに、叡山の座主始まって第三・第四の慈覚・智証、存の外に本師たる伝教・義真に背いて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなずり戯論とわらいし故に、存の外に、延暦寺の戒、清浄無染の中道の妙戒なりしが、いたずらに土泥となりぬること、云っても余りあり、歎いても何かはせん。彼の摩黎山の瓦礫の土となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし。夫れ、一代聖教の邪正・偏円を弁えたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきか。
 この法門は、義理を案じて義をつまびらかにせよ。