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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

本尊と戒壇と題目の五字なり。
 教主釈尊、この秘法をば、三世に隠れ無き普賢・文殊等にも譲り給わず。いわんや、その以下をや。されば、この秘法を説かせ給いし儀式は、四味三教ならびに法華経の迹門十四品に異なりき。所居の土は、寂光本有の国土なり。能居の教主は、本有無作の三身なり。所化もって同体なり。かかる砌なれば、久遠称揚の本眷属たる上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出だして付嘱し給う。道暹律師云わく「法これ久成の法なるに由るが故に、久成の人に付す」等云々。
 問うて云わく、その嘱するところの法門、仏の滅後においては、いずれの時に弘通し給うべきか。
 答えて云わく、経の第七の薬王品に云わく「後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなかれ」等云々。謹んで経文を拝見し奉るに、仏の滅後正像二千年過ぎて、第五の五百歳、闘諍堅固・白法隠没の時云々。
 問うて云わく、夫れ、諸仏の慈悲は天月のごとし。機縁の水澄めば、利生の影をあまねく万機の水に移し給うべきところに、正像末の三時の中に末法に限ると説き給わば、教主釈尊の慈悲において偏頗あるに似たり、いかん。
 答う。諸仏の和光利物の月影は、九法界の闇を照らすといえども、謗法・一闡提の濁水には影を移さず。正法一千年の機の前には、ただ小乗・権大乗相叶えり。像法一千年には、法華経の迹門、機感相応せり。末法の始めの五百年には、法華経の本門前後十三品を置いて、ただ寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。