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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

一百六十四人は羅什の智をもって知り候べし。羅什来らせ給いて、前後の一百六十四人が誤りも顕れ、新訳の十一人が誤りも顕れ、また小ざかしくなりて候も羅什の故なり。これ私の義にはあらず。感通伝に云わく「後に絶え、前に光く」と云々。「前に光く」と申すは、後漢より後秦までの訳者。「後に絶ゆ」と申すは、羅什已後、善無畏・金剛智・不空等も、羅什の智をうけてすこしこざかしく候なり。感通伝に云わく「已下の諸人ならびに皆俊なり」云々。
 されば、この菩提心論の「唯」の文字は、たとい竜樹の論なりとも、不空の私の言なり。いかにいわんや、次下に「諸教の中において闕いて書かず」とかかれて候、存外のあやまりなり。即身成仏の手本たる法華経をばさしおいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、あまつさえ「唯」の一字をおかるる条、天下第一の僻見なり。これひとえに修羅根性の法門なり。
 天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云わく「仏、三世において等しく三身有り。諸教の中においてこれを秘して伝えず」とかかれて候。これこそ即身成仏の明文にては候え。不空三蔵、この釈を消せんがために、事を竜樹に依せて、「唯真言の法の中にのみ即身成仏す。故に、これ三摩地の法を説く。諸教の中において闕いて書かず」とかかれて候なり。されば、この論の次下に即身成仏をかかれて候が、あえて即身成仏にはあらず。生身得忍に似て候。この人は、即身成仏はめずらしき法門とはきかれて候えども、即身成仏の義はあえてうかがわぬ人々なり。いかにも候えば、二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべきことなり。天台大師の「諸教の中においてこれを秘して伝えず」の釈は、栴檀、栴檀。恐々謹言。