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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

二乗の即身成仏するのみならず、凡夫も即身成仏するなり。この法門をだにもくわしく案じほどかせ給わば、華厳・真言等の人々の即身成仏と申し候は、依経に文は候えども、その義はあえてなきことなり。僻事の起こり、これなり。
 弘法・慈覚・智証等は、この法門に迷惑せる人なりとみ候。いかにいわんや、その已下の古徳・先徳等は言うにたらず。ただし、天台の第四十六の座主・東陽の忠尋と申す人こそ、この法門はすこしあやぶまれて候ことは候え。しかれども、天台の座主・慈覚の末をうくる人なれば、いつわりおろかにてさてはてぬるか。その上、日本国に生を受くる人は、いかでか心にはおもうとも言に出だし候べき。しかれども、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとおぼしめされて候ぞ。我が弟子等は、このことをおもい出にせさせ給え。

 妙法蓮華経の五字の中に、諸論師・諸人師の釈まちまちに候えども、皆、諸経の見を出でず。ただし、竜樹菩薩の大論と申す論に「譬えば、大薬師の能く毒をもって薬となすがごとし」と申す釈こそ、この一字を心えさせ給いたりけるかと見えて候え。毒と申すは、苦・集の二諦、生死の因果、毒の中の毒にて候ぞかし。この毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申しけるなり。良薬と申すは、毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり。この竜樹菩薩は、大論と申す文の一百の巻に「華厳・般若等は妙にあらず、法華経こそ妙にて候え」と申す釈なり。この大論は、竜樹菩薩の論、羅什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり。天台大師は、この法門を御らんあって、南北を