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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

わく「争って醍醐を盗んで各自宗に名づく」云々。また云わく「法華経の二乗作仏・久遠実成は無明の辺域、大日経に説くところの法門は明の分位なり」等云々。華厳の人師云わく「法華経に説くところの一念三千の法門は枝葉、華厳経の法門は根本の一念三千なり」云々。これ、跡形も無き僻見なり。真言・華厳経に一念三千を説きたらばこそ、一念三千という名目をばつかわめ。おかし、おかし。亀毛・兎角の法門なり。
 正しく久遠実成の一念三千の法門は、前四味ならびに法華経の迹門十四品まで秘せさせ給いてありしが、本門・正宗に至って、寿量品に説き顕し給えり。この一念三千の宝珠をば、妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我ら衆生のために残し置かせ給いしなり。正法・像法に出でさせ給いし論師・人師の中に、この大事を知らず。ただ竜樹・天親こそ心の底に知らせ給いしかども、色にも出ださせ給わず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思しめししかども、末代のためにや、止観十章・第七正観の章に至ってほぼ書かせ給いたりしかども、薄葉に釈を設けてさて止み給いぬ。ただ理観の一分を示して、事の三千をば斟酌し給う。彼の天台大師は迹化の衆なり。この日蓮は本化の一分なれば、盛んに本門の事の分を弘むべし。
 しかるに、かくのごとき大事の義理の籠もらせ給う御経を書いて進らせ候えば、いよいよ信を取らせ給うべし。勧発品に云わく「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし」等云々。安楽行品に云わく「諸天は昼夜に、常に法のための故に、しかもこれを衛護す乃至天の諸の童子は、もって給使をなさん」等云々。譬喩品に云わく「その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」