1336ページ
総じて御心え候え。法華経と爾前と引き向かえて勝劣・浅深を判ずるに、当分跨節のことに三様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間にほぼ夢のごとく一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は、天台・妙楽・伝教も、ほぼこれを示せども、いまだ事了えず。詮ずるところ、末法の今に譲り与えしなり。五の五百歳はこれなり。
ただし、この法門の御論談は余は承らず候。彼は広学多聞の者なり。「はばかり、はばかり。みた、みた」と候いしかば、この方のまけなんども申しつけられなば、いかんがし候べき。ただし、彼の法師等が、彼の釈を知り候わぬはさておき候いぬ、「六十巻になし」なんど申すは、天のせめなり。謗法の科の法華経の御使いに値って顕れ候なり。
また、この沙汰のことも、定めてゆえありて出来せり。かじまの大田次郎兵衛・大進房、また、本院主もいかにとや申すぞ、よくよくきかせ給い候え。
これらは経文に子細あることなり。法華経の行者をば、第六天の魔王の必ず障うべきにて候。十境の中の魔境これなり。魔の習いは、善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶことに候。強いて悪を造らざる者をば、力及ばずして善を造らしむ。また、二乗の行をなすものをば、あながちに怨をなして善をすすむるなり。また、菩薩の行をなすものをば、遮って二乗の行をすすむ。最後に純円の行を一向になす者をば、兼別等に堕とすなり。止観の八等を御らんあるべし。
また、彼が云わく「止観の行者は持戒」等云々。
文句の九には初・二・三の行者の持戒をばこれをせいす。経文、また分明なり。止観に相違のこと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(140)常忍抄 | 弘安元年(’78)10月1日 | 57歳 | 富木常忍 |