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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

乃至いまだかつてしばらくも廃せず」云々。この経の文を承けて、天台・妙楽は釈せしなり。
 この経文は、初成道の華厳の別円より乃至法華経の迹門十四品を、あるいは「小法」と云い、あるいは「徳薄・垢重」、あるいは「虚出」等と説ける経文なり。もししからば、華厳経の華厳宗、深密経の法相宗、般若経の三論宗、大日経の真言宗、観経の浄土宗、楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は、依経のごとくその経を読誦すとも、三界を出でず、三途を出でざる者なり。いかにいわんや、あるいは彼を実と称し、あるいは勝る等云々。この人々、天に向かって唾を吐き、地を爴んで忿りをなす者か。
 この法門において、如来の滅後、月氏一千五百余年、付法蔵の二十四人、竜樹・天親等、知っていまだこれを顕さず。漢土一千余年の余人も、いまだこれを知らず。ただ天台・妙楽等のみ、ほぼこれを演ぶ。しかりといえども、いまだその実義を顕さざるか。伝教大師、もってかくのごとし。今、日蓮、ほぼこれを勘うるに、法華経のこの文を、重ねて涅槃経に演べて云わく「もし三法において異の想を修せば、当に知るべし、この輩は、清浄の三帰に則ち依処無く、あらゆる禁戒をば皆具足せず、終に声聞・縁覚・菩提の果を証すること能わず」等云々。この経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり。寿量品は木に譬え、爾前・迹門をば影に譬うるの文なり。経文にまた、これ有り。五時八教・当分跨節・大小の益は影のごとし、本門の法門は木のごとし云々。また、寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり、過去に寿量品を聞きし者のことなり等云々。
 また、「不信は謗法にあらず」と申すこと、また云わく「不信の者、地獄に堕ちず」云々。
 五の巻に云わく「疑いを生じて信ぜずんば、則ち当に悪道に堕つべし」云々。