SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

大日経等の権大乗の人々、各々「劣れるを勝ると謂う見」を起こして、我が宗はあるいは「法華経と斉等」、あるいは「勝れたり」なんど申す人多く出来し、あるいは国主等これを用いぬれば、これによって、三毒・八万四千の病起こる。かえって、自らの依経をもって治すれども、いよいよ倍増す。たとい法華経をもって行うとも験なし。経は勝れたれども、行者、僻見の者なる故なり。
 法華経にまた二経あり。いわゆる迹門と本門となり。本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば、爾前と法華経との違目よりもなお相違あり。爾前と迹門とは、相違ありといえども相似の辺も有りぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円は相似せり。爾前の仏と迹門の仏は、劣応・勝応・報身・法身異なれども、始成の辺は同じきぞかし。今、本門と迹門とは、教主すでに久・始のかわりめ、百歳のおきなと一歳の幼子のごとし。弟子また水火なり。土の先後いうばかりなし。しかるを、本迹を混合すれば、水火を弁えざる者なり。
 しかるを、仏は分明に説き分け給いたれども、仏の御入滅より今に二千余年が間、三国ならびに一閻浮提の内に分明に分けたる人なし。ただ漢土の天台、日本の伝教、この二人ばかりこそほぼ分け給いて候えども、本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。詮ずるところは、天台と伝教とは内には鑑み給うといえども、一には時来らず、二には機なし、三には譲られ給わざる故なり。今、末法に入りぬ。地涌出現して弘通あるべきことなり。
 今、末法に入って本門のひろまらせ給うべきには、小乗・権大乗・迹門の人々、たとい科なくとも、彼々の法にては験有るべからず。譬えば、春の薬は秋薬とならず。たといなれども、春夏のごとくな