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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

因の種なり」等云々。その相対種とは、煩悩と業と苦との三道、その当体を押さえて法身と般若と解脱と称する、これなり。
 その中に、就類種の一法は、宗は法華経に有りといえども、少分はまた、爾前の経々にも通ず。妙楽云わく「別教はただ就類の種のみ有って、相対無し」云々。この釈に別教と云うは、本の別教にはあらず。爾前の円、あるいは他師の円なり。また、法華経の迹門の中、「舎利を供養す」已下二十余行の法門も、大体就類種の開会なり。
 問う。その相対種の心いかん。
 答う。止観に云わく「いかなるか、円の法を聞くこと。生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞く。三つの名有りといえども、三つの体無し。これ一体なりといえども、三つの名を立つ。この三つ即ち一相にして、その実、異なりあることなし。法身、究竟なれば、般若も解脱もまた究竟なり。般若、清浄なれば、余もまた清浄なり。解脱、自在なれば、余もまた自在なり。一切の法を聞くこと、またかくのごとし。皆、仏法を具して、減少するところなし。これを円を聞くと名づく」等云々。この釈は、即ち相対種の手本なり。
 その意いかん。
 答う。生死とは我らが苦果の依身なり。いわゆる五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我ら衆生、無始曠劫より已来、この三道を具足し、今、法華経に値って三道即三徳