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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服・飲食をうばえば必ず餓鬼となる。持戒・尊貴を笑えば貧賤の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑えば国土の民となり王難に値う。これは常の因果の定まれる法なり。
 日蓮はこの因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は、月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるがごとくなる御経を、あるいは上げ、あるいは下して嘲弄せし故に、この八種の大難に値えるなり。この八種は、尽未来際が間一つずつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによって一時に聚め起こせるなり。譬えば、民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等におおせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。その所を出ずる時に競い起こるがごとし。「これ護法の功徳力に由るが故なり」等はこれなり。
 法華経には「諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、刀杖・瓦石を加うるもの有らん乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって乃至しばしば擯出せられん」等云々。獄卒が罪人を責めずば、地獄を出ずる者かたかりなん。当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。
 日蓮は過去の不軽のごとく、当世の人々は彼の軽毀の四衆のごとし。人は替われども因はこれ一なり。父母を殺せる人異なれども、同じ無間地獄におつ。いかなれば、不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。また彼の諸人は跋陀婆羅等と云われざらんや。ただ千劫阿鼻地獄にて責められんことこそ不便にはおぼゆれ。これをいかんとすべき。彼の軽毀の衆は、始めは謗ぜしかども、後には