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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ず。仏界何ぞこれを用いざらん。尭・舜等の聖人のごときは、万民において偏頗無し。人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は見るところの人において仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。これらの現証をもってこれを信ずべきなり。
 問うて曰わく、教主釈尊は〈これより堅固にこれを秘す〉三惑已断の仏なり。また十方世界の国主、一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍り、四衆八部後に従い、金剛前に導き、八万法蔵を演説して、一切衆生を得脱せしむ。かくのごとき仏陀、何をもって我ら凡夫の己心に住せしめんや。
 また迹門・爾前の意をもってこれを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求むれば、あるいは能施太子、あるいは儒童菩薩、あるいは尸毘王、あるいは薩埵王子、あるいは三祇百劫、あるいは動逾塵劫、あるいは無量阿僧祇劫、あるいは初発心時、あるいは三千塵点等の間、七万・五千・六千・七千等の仏を供養し、劫を積み行満じて、今、教主釈尊と成りたもう。かくのごとき因位の諸行は皆、我らが己心所具の菩薩界の功徳なるか。
 果位をもってこれを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏、四十余年の間、四教の色身を示現し、爾前・迹門・涅槃経等を演説して、一切衆生を利益したもう。いわゆる、華蔵の時の十方台上の盧舎那、阿含経の三十四心断結成道の仏、方等・般若の千仏等、大日・金剛頂等の千二百余尊、ならびに迹門宝塔品の四土色身。涅槃経の、あるいは丈六と見、あるいは小身・大身と現じ、あるいは盧舎那と見、あるいは身虚空に同じと見るとの四種の身。乃至八十御入滅したまいて舎利を留めて正像末を