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問うて曰わく、十界互具の仏語分明なり。しかりといえども、我らが劣心に仏法界を具すること、信を取り難きものなり。今時これを信ぜずんば、必ず一闡提と成らん。願わくは、大慈悲を起こしてこれを信ぜしめ、阿鼻の苦を救護したまえ。
答えて曰わく、汝既に「ただ一大事の因縁」の経文を見聞してこれを信ぜずんば、釈尊より已下、四依の菩薩ならびに末代の理即の我ら、いかんが汝が不信を救護せんや。しかりといえども、試みにこれを言わん。仏に値いたてまつって覚らざる者の、阿難等の辺にして得道する者これ有ればなり。
それ、機に二つ有り。一には、仏を見たてまつり、法華にて得道す。二には、仏を見たてまつらざれども、法華にて得道するなり。その上、仏教已前は、漢土の道士、月支の外道の、儒教・四韋陀等をもって縁となして正見に入る者これ有り。また利根の菩薩・凡夫等の、華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁をもって大通・久遠の下種を顕示する者多々なり。例せば、独覚の飛花落葉のごとし。教外の得道これなり。過去の下種結縁無き者にして権小に執著する者は、たとい法華経に値い奉れども、小権の見を出でず。自見をもって正義となすが故に、還って法華経をもって、あるいは小乗経に同じ、あるいは華厳・大日経等に同じ、あるいはこれを下す。これらの諸師は儒家・外道の賢聖より劣れる者なり。これらはしばらくこれを置く。
十界互具、これを立つるは、石中の火・木中の花、信じ難けれども、縁に値って出生すればこれを信ず。人界所具の仏界は水中の火・火中の水、最もはなはだ信じ難し。しかりといえども、竜火は水より出で、竜水は火より生ず。心得られざれども、現証有ればこれを用いる。既に人界の八界これを信
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |