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んや正像をや。いかにいわんや末法の初めをや。汝これを信ぜば、正法にあらじ。
問うて曰わく、経文ならびに天台・章安等の解釈は疑網無し。ただし、火をもって水と云い、墨をもって白しと云う。たとい仏説たりといえども、信を取り難し。今しばしば他面を見るに、ただ人界のみに限って余界を見ず。自面もまたまたかくのごとし。いかんが信心を立てんや。
答う。しばしば他面を見るに、ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、ある時は貪り現じ、ある時は癡か現じ、ある時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法においては六道共にこれ有り。四聖は冥伏して現ぜざれども、委細にこれを尋ねばこれ有るべし。
問うて曰わく、六道においては、分明ならずといえども、ほぼこれを聞くに、これを備うるに似たり。四聖は全く見えざるはいかん。
答えて曰わく、前には人界の六道これを疑う。しかりといえども、強いてこれを言って相似の言を出だせしなり。四聖もまたしかるべきか。試みに道理を添加して万が一これを宣べん。いわゆる、世間の無常は眼前に有り。あに人界に二乗界無からんや。無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。ただ仏界ばかり現じ難し。九界を具するをもって、強いてこれを信じ、疑惑せしむることなかれ。法華経の文に人界を説いて云わく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」。涅槃経に云わく「大乗を学する者は、肉眼有りといえども、名づけて仏眼となす」等云々。末代の凡夫、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足するが故なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |