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仏の滅後、天竺においてこの詮を得たるは竜樹菩薩、漢土において始めてこれを得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども、その心は天台宗に落ちたり。その門弟等、このことを知らず。いかんぞ謗法の失を免れんや。
ある人、日蓮を難じて云わく「機を知らずして麤義を立て、難に値う」。ある人云わく「勧持品のごときは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違す」。ある人云わく「我もこの義を存すれども、言わず」云々。ある人云わく「ただ教門ばかりなり。理はつぶさに我これを存ず」。
卞和は足を切られ、清丸は穢丸という名を給わって死罪に及ばんと欲す。時の人これを咲う。しかりといえども、その人いまだ善き名を流さず。汝等が邪難もまたしかるべし。
勧持品に云わく「諸の無智の人の、悪口・罵詈等するもの有らん」云々。日蓮、この経文に当たれり。汝等、何ぞこの経文に入らざる。「および刀杖を加うる者」等云々。日蓮は、この経文を読めり。汝等、何ぞこの経文を読まざる。「常に大衆の中に在って我らの過を毀らんと欲す」等云々。「国王・大臣・ばら門・居士に向かって」等云々。「悪口して顰蹙し、数々擯出せられん」。「数々」とは度々なり。日蓮、擯出は衆度、流罪は二度なり。
法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品たるべし。その時は、日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。
一部八巻二十八品、天竺の御経は一由旬に布くと承る。定めて数品有るべし。今、漢土・日本の二十八品は略の中の要なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(120)寺泊御書 | 文永8年(’71)10月22日 | 50歳 | 富木常忍 |