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かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。彼のはんかい・ちょうりょう・まさかど・すみともといわれたる者は、名をおしむ故に、はじを思う故に、ついに臆したることはなし。同じはじなれども、今生のはじはもののかずならず、ただ後生のはじこそ大切なれ。獄卒・だつえば・懸衣翁が三途河のはたにていしょうをはがん時を思しめして、法華経の道場へまいり給うべし。法華経は後生のはじをかくす衣なり。経に云わく「裸なる者の衣を得たるがごとし」云々。この御本尊こそ冥途のいしょうなれ。よくよく信じ給うべし。おとこのはだえをかくさざる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるおやあるべしや。釈迦仏・法華経は、めとおやとのごとくましまし候ぞ。
日蓮をたすけ給うこと、今生の恥をかくし給う人なり。後生はまた、日蓮、御身のはじをかくし申すべし。昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしゅうとめになること候ぞ。信心おこたらずして、南無妙法蓮華経と唱え給うべし。度々の御音信、申しつくしがたく候ぞ。このこと、寂日房くわしくかたり給え。
九月十六日 日蓮 花押
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(113)寂日房御書 | 弘安2年(’79)9月16日 | 58歳 |