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ば、正直捨方便の法華経に大妄語を加え給えるか。十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は、提婆達多が大妄語にもこえ、瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり。たとい大梵天として色界の頂に居し、千眼天といわれて須弥の頂におわすとも、日蓮をすて給うならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいずるごおわせじ。この罪おそろしくおぼせば、『そのいわれあり』といそぎいそぎ国にしるしをいだし給え。本国へかえし給え」と、高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり、かえる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども、よしなく打ちころされぬ。天のせめということあらわなり。これにやおどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。
しかれどもいまだゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せしかば、頭の白き烏とび来りぬ。彼の燕のたん太子の馬・烏のれい、日蔵上人の「山がらすかしらもしろくなりにけり我がかえるべき期や来ぬらん」とながめしこれなりと申しもあえず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡国につきぬ。同十三日に国を立って、まうらというつにおりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわいにふつかじをすぎて、かしわざきにつきて、次の日はこうにつき、十二日をへて、三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせしことなれば、日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆえに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。
ただし、本国にいたりて今一度父母のはかをもみんとおもえども、にしきをきて故郷へはかえれと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(108)光日房御書 | 建治2年(’76)3月 | 55歳 | 光日尼 |