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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 皆人おぼするようは「いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用いるべき」と。他人はさておきぬ、安房国の東西の人々は、このことを信ずべきことなり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等は、とうとかりし僧ぞかし。これらの臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさておきぬ。円智房は、清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて、十巻をそらにおぼえ、五十年が間、一日一夜に二部ずつよまれしぞかし。かれをば皆人は「仏になるべし」と云々。日蓮こそ「念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底におつべし」と申したりしが、この人々の御臨終はよく候いけるか、いかに。日蓮なくば、この人々をば仏になりぬらんとこそおぼすべけれ。
 これをもってしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましきことどもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家にもしらせ給わず。末の代はいよいよあおぐなり。あらわす人なくば、未来永劫までもさてあるべし。拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ、その失はあらわれしか。
 夫れ、人身をうくることは五戒の力による。五戒を持てる者をば、二十五の善神これをまぼる上、同生同名と申して二つの天、生まれしよりこのかた左右のかたに守護するゆえに、失なくて鬼神あだむことなし。しかるに、この国の無量の諸人、なげきをなすのみならず、ゆき・つしまの両国の人、皆事にあいぬ。大宰府また申すばかりなし。この国はいかなるとがのあるやらん。しらまほしきことなり。一人二人こそ失もあるらめ、そこばくの人々いかん。これひとえに、法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末の者ども、国中に充満せり。