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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

べきようなし。
 華厳宗は、天台已前には南北の諸師「華厳経は法華経に勝れたり」とは申しけれども、華厳宗の名は候わず。唐の代に高宗の后・則天皇后と申す人の御時、法蔵法師・澄観なんど申す人、華厳宗の名を立てたり。この宗は教相に五教を立て、観門には十玄・六相なんど申す法門なり。おびただしきようにみえたりしかども、澄観は天台をはするようにて、なお天台の一念三千の法門をかりとりて、我が経の「心は工みなる画師のごとし」の文の心とす。これは、華厳宗は天台に落ちたりというべきか、また一念三千の法門を盗みとりたりというべきか。澄観は持戒の人、大小の戒を一塵をもやぶらざれども、一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし。
 真言宗の名は天竺にありやいなや。大いなる不審なるべし。ただ真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか。よくよくしるべし。なかんずく、善無畏等、法華経と大日経との勝劣をはんずるに、「理同事勝」の釈をばつくりて、「一念三千の理は法華経・大日経これ同じ」なんどいえども、「印と真言とが法華経には無ければ、事法は大日経に劣れり。事相かけぬれば、事理俱密もなし」と存ぜり。今、日本国および諸宗の学者等、ならびにことに用いるべからざる天台宗、共にこの義をゆるせり。例せば、諸宗の人々をばそねめども、一同に弥陀の名をとなえて自宗の本尊をすてたるがごとし。天台宗の人々は一同に真言宗に落ちたる者なり。
 日蓮、理のゆくところを不審して云わく、善無畏三蔵の法華経と大日経とを「理は同じく事は勝れたり」と立つるは、天台大師の始めて立て給える一念三千の理を、今、大日経にとり入れて同じと自