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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

らが持つところの論師・人師の立義、一々に、あるいは所依の経々に相違するよう、あるいは一代聖教の始末・浅深等を弁えざる故に専ら経文をもって責め申す時、各々、宗々の元祖の邪義扶け難き故に、陳じ方を失い、あるいは疑って云わく「論師・人師、定めて経論に証文ありぬらん。我が智及ばざれば扶けがたし」、あるいは疑って云わく「我が師は上古の賢哲なり、今、我らは末代の愚人なり」なんど思う故に、有徳・高人をかたらいえて、怨のみなすなり。
 しかりといえども、予、自他の偏党をなげすて、論師・人師の料簡を閣いて、専ら経文によるに、法華経は勝れて第一におわすと意得て侍るなり。法華経に勝れておわする御経ありと申す人出来候わば、思しめすべし、「これは相似の経文を見たがえて申すか。また、人の私に我と経文をつくりて、事を仏説によせて候か。智慧おろかなる者、弁えずして、仏説と号する」なんどと思しめすべし。慧能が壇経、善導が観念法門経、天竺・震旦・日本国に、私に経を説きおける邪師、その数多し。その外、私に経文を作り、経文に私の言を加えなんどせる人々、これ多し。しかりといえども、愚者はこれを真と思うなり。譬えば、天に日月にすぎたる星有りなんど申せば、眼無き者はさもやなんど思わんがごとし。
 「我が師は上古の賢哲、汝は末代の愚人」なんど申すことをば、愚かなる者はさもやと思うなり。この不審は今に始まりたるにあらず。陳・隋の代に、智顗法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。この人、始めいやしかりし時、ただ漢土五百余年の三蔵・人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等、雲のごとく起こり、