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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

置きたる経は一経もなし。涅槃経の題目にも「大涅槃経」と云って、「大」の字あれども、「妙」の字なし。ただし、釈籤第一に云わく「『大』は、ただこれ『妙』なるのみ」と云えり。しかれども、「大」と「妙」とは不同なり。同じ「大」なれども、華厳経の「大方広仏華厳経」と云える題号の「大」と、涅槃経の「大」と、天地雲泥なり。華厳経の「大」は無得道の「大」なり。涅槃経の「大」は法華と同じく醍醐味の「大」なり。しかれども、「しかも涅槃なお劣る」と云う時は、法華経には劣れり。このことは、涅槃経に分明に「法華経に劣る」と説かれたり。涅槃経に云わく「法華の中の八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずるがごとし。秋収冬蔵して、さらに所作無きがごとし」云々。この文、分明に我と法華経に劣れりと説かせ給えり云々。
一、蓮華
  「蓮華」とは、本因本果なり。この本因本果というは、一念三千なり。本有の因、本有の果なり。今始めたる因果にあらざるなり。五百塵点の法門とは、このことを説かれたり。本因の因というは、下種の題目なり。本果の果とは、成仏なり。因というは、信心領納のことなり。この経を持ち奉る時を、本因とす。その本因のまま成仏なりと云うを、本果とは云うなり。日蓮が弟子檀那の肝要は、本果より本因を宗とするなり。本因なくしては、本果有るべからず。よって、本因は、慧の因にして名字即の位なり。本果は、果にして究竟即の位なり。究竟即とは、九識本覚の異名なり。九識本法の都とは、法華の行者の住所なり。神力品に云わく「若山谷曠野(もしは山谷曠野にても)」等と説けり。「即是道場(即ちこれ道場なり)」と見えたり。あに、法華の行者の住所は、生処・得道・転法