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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ことと意得べきなり。「樹を動かす」とは、煩悩なり。「風を訓う」とは、即ち菩提なり。「扇を挙ぐ」とは、生死なり。「月を喩す」とは、即ち涅槃なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、大白牛車に乗って「直至道場(直ちに道場に至る)」するなり。
  記の五に云わく「『樹』と『扇』と、『風』と『月』とは、ただ円の教と理とのみなり」。また云わく「法説の実相は、何ぞ隠れ、何ぞ顕れん。長風息むことなく、空月常に懸かれり」。この釈これを思うべし。「隠る」とは、死なり。「顕る」とは、生なり。「長風」とは、我らが息なり。「空月」とは、心月なり。法華の生死とは、三世常恒にして隠・顕これ無し。我らが息風とは、吐くところの言語なり。これ南無妙法蓮華経なり。一心法界の覚月、常住にして懸かれり。これを指して「ただ円の教と理とのみ」と釈せり。「円」とは、法界なり。「教」とは、三千羅列なり。「理」とは、実相の一理なり云々。
第二 「即起合掌(即ち起って合掌す)」の事
  文句の五に云わく「外儀を叙ぶれば、『即起合掌』は身の領解と名づく。昔は権実を二となす。掌の合わざるがごとし。今は権即実と解る。二つの掌の合うがごとし。『向仏(仏に向かう)』とは、昔は、権も仏因にあらず、実も仏果にあらず。今は、権即実と解って大円因を成ず。因は必ず果に趣く。故に『合掌向仏』と言う」。
  御義口伝に云わく、「合掌」とは、法華経の異名なり。「向仏」とは、法華経に値い奉るを云うなり。「合掌」は色法なり、「向仏」は心法なり。色心の二法を妙法と開悟するを、「歓喜踊躍」と