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の願、しかしながら「如我昔所願」なり。終に引導して己身と和合するを、「今者已満足(今、已に満足しぬ)」と意得べきなり。この「今者已満足」の「已」の字、「すでに」と読むなり。いずれのところを指して「すでに」とは説けるや。およそ所釈の心は、「諸法実相」の文を指して「すでに」とは云えり。しかりといえども、当家の立義としては、南無妙法蓮華経を指して「今者已満足」と説かれたりと意得べきなり。
されば、この「如我等無異」の文、肝要なり。「如我昔所願」は本因妙、「如我等無異」は本果妙なり。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。釈には「因を挙げて信を勧む」と。「因を挙ぐ」は、即ち本果なり。今、日蓮が唱うるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。あに「今者已満足」にあらずや。「已」とは、建長五年四月二十八日に初めて唱え出だすところの題目を指して、「已」と意得べきなり。妙法の大良薬をもって一切衆生の無明の大病を治せんこと疑いなきなり。これを思い遣る時んば満足なり。「満足」とは、成仏ということなり。釈に云わく「円は円融円満に名づけ、頓は頓極頓足に名づく」、これを思うべし云々。
第七 「於諸菩薩中 正直捨方便(諸の菩薩の中において、正直に方便を捨つ)」の事
文句の四に云わく「『於諸菩薩中』より下の三句は、正しく実を顕すなり。五乗はこれ曲にして直にあらず。通・別は偏・傍にして正にあらず。今、皆彼の偏・曲を捨てて、ただ正直の一道のみを説く」。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |