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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 寿量品に云わく「諸の善男子よ。如来は諸の衆生の小法を楽える徳薄・垢重の者を見て、この人のために、我は小くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。しかるに、我は実に成仏してより已来、久遠なることかくのごとし」
 文句の九に云わく「一〈往日に約す〉○二〈現在に約す〉○三〈修行に約す〉○四に果門に約せば、近成の小を聞かんと楽えるものは、釈氏の宮を出でて始めて菩提を得たりとし、長遠大久の道を聞くことを欲楽せず。故に『小を楽う』と言う。これらの小心は今日に始まるにあらず。もし先より大を楽わば、仏即ち始成を説かず。始成を説くことは、皆小法を楽える者のためなるのみ」
 また云わく「『諸の衆生の小法を楽える者』とは、見るところの機なり。華厳に云わく『大衆清浄なりといえども、その余の小法を楽える者は、あるいは疑悔を生じ、長夜に衰悩せん。これを愍れむが故に黙す』。偈に云わく『その余の久しく行ぜざるは、智慧いまだ明了ならず。識に依って智に依らず。聞き已わって憂悔を生じ、彼将に悪道に堕ちんとす。これを念うが故に説かず』。彼の経を案ずるに、声聞・二乗無し。ただ久しく行ぜざる者を指して、小法を楽える人となすのみ。師云わく『小を楽えるは、小乗の人にはあらざるなり。乃ちこれ近説を楽える者を小となすのみ』と」
 文句の九に云わく「『徳薄』とは、縁・了の二善、功用微劣なり。下の文に『諸子は幼稚なり』と云うなり。『垢重』とは、見思いまだ除かざるなり」
 記の九に云わく「『徳薄・垢重』とは、その人いまだ実教の二因有らざるなり。『下の文に諸子は幼稚なりと云う』と言うは、下の医と子との譬えの文を指す。なおいまだ円を聞くに堪えず。いわんや