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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

は「いかなるか本来の面目」と問えば、「庭前の柏樹子」なんど答えたる様の言づかいをして禅法を示す様なり。「向上」というは、上根の者のことなり。この機は、祖師よりも伝えず、仏よりも伝えず、我として禅の法門を悟る機なり。迦葉、霊山微笑の花によって心の一法を得たりと云う時に、これなお中根の機なり。
 詮ずるところ、禅の法門ということは、迦葉一枝の花房を得しより已来、出来せる法門なり。そもそも、伝えし時の花房は、木の花か草の花か。五色の中には、いかようなる色の花ぞや。また花の葉は何重の葉ぞや。委細にこれを尋ぬべきなり。この花をありのままに云い出だしたる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知るべきなり。たとい得たりとは存知すとも、真実の仏意には叶うべからず。いかんとなれば、法華経を信ぜざるが故なり。この心は法華経の方便品の末の長行に委しく見えたり。委しくは引いて拝見し奉るべきなり。
 次に禅の法門、「何としても物に著するところを離れよ」と教えたる法門にてあるなり。「さ」と云えば「それも情なり」、「こう」と云うも「それも情なり」と、あなたこなたへすべり、止まらぬ法門にて候なり。それを責むべき様は、他人の情に著したらんばかりをば沙汰して、己が情量に著し封ぜらるるところをば知らざるなり。云うべき様は、「御辺は人の情ばかりをば責むれども、御辺、情を情と執したる情をば、など離れ得ぬぞ」と反詰すべきなり。
 「およそ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無きなり。汝、『仏祖も伝えず』と云って、仏祖よりも伝えずとなのらば、さては禅法は天魔の伝うるところの法門なり、いかん。しかるあいだ、汝、