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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

己を本分とせんや。故に、経に云わく「近きを見るべからざること人の睫のごとく、遠きを見るべからざること空中の鳥の跡のごとし」云々。上根上機の坐禅はしばらくこれを置く。当世の禅宗は瓮を蒙って壁に向かうがごとし。経に云わく「盲冥にして見るところ無し。大勢ある仏、および断苦の法を求めず、深く諸の邪見に入って、苦をもって苦を捨てんと欲す」云々。弘決に云わく「世間の顕語すらなお識らず、いわんや中道の遠理をや。円常の密教いずくんぞ当に識るべけんや」云々。
 当世の禅者、皆これ大邪見の輩なり。なかんずく、三惑未断の凡夫の語録を用いて、四智円明の如来の言教を軽んずるは、返す返す過てる者か。疾の前に薬なく、機の前に教なし。等覚の菩薩すら、なお教を用いき。底下の愚人、何ぞ経を信ぜざる云々。ここをもって漢土に禅宗興ぜしかば、その国たちまちに亡びき。本朝の滅すべき瑞相に、闇証の禅師充満す。止観に云わく「これ則ち法滅の妖怪なり。またこれ時代の妖怪なり」云々。
 禅宗云わく、法華宗は「不立文字」の義を破す。何故ぞ仏は「一字も説かず」と説き給うや。
 答う。汝、楞伽経の文を引くか。本法・自法の二義を知らざるか。学ばずんば習うべし。その上、彼の経においては「いまだ真実を顕さず」と破られ畢わんぬ。何ぞ指南とせん。
 問うて云わく、像法決疑経に云わく「如来の一句の法を説きたもうをも見ず」云々、いかん。
 答う。これは常施菩薩の言なり。法華経には「菩薩はこの法を聞いて、疑網は皆すでに除こりぬ。千二百の羅漢は、ことごとくまた当に作仏すべし」と云って、八万の菩薩も千二百の羅漢もことごとく皆列座し、聴聞・随喜す。常施一人は見ず。いずれの説に依るべき。法華の座に挙ぐる菩薩の上首